「永遠に終わりそうにない締め切り襲来感覚による重圧」
小笠原毅
(※誰かにあてる風に)
Sさんがおっしゃられる「ひきこもりの危機感のなさ」「ひきこもりの、経済的危機に転落することへの危機感のなさ」というのは――まあそう感じられてる時点ですでに一般的なひきこもりがどういう状態にあるかというのを全く認識されてないなというツッコミをしたいところではあるのですが――、こうも言い換えられるのではないでしょうか。
「ひきこもりには締め切り設定意識がなさすぎる」と。
こう言い換えると、Sさんのおっしゃられる事はすべて一応説明がつきやすくなるのではないかと思います。Sさんとしては「で、ひきこもり改善をいつやるの?いつ始めるの?」としか疑問が沸かない、と。
確かにひきこもりは締め切り設定がヘタクソである事は間違いないように思います。ただそれは――これはあくまで僕が一番煮詰まっていたひきこもりの時期を振りかえった上での個人的な感覚ですが――「ひきこもりは一秒一秒、締め切りに追われている感覚」に陥っていることからくる、逆説的なヘタクソさなような気がしています。単純に焦りと言ってもいいかもしれない。
不登校やひきこもり問題に際して言われがちな「ひきこもりであることに負い目を感じず、まずはゆっくり自分の好きなことを始めればいい」というフレーズは、そういった意味で「一秒一秒、締め切りに追われている感覚」からまずは離れよう、ということなんじゃないでしょうか。そう言った事から離れてみなければ、締め切りも設定しようがないというか。
これは僕の個人的な体験ですが、アルバイトしていた時期の事なんですが、臨機応変な動きを非常に求められるアルバイトでしたのでそれに合わせて動かなければならないのですが、人間関係的な悩みもありましたので、頭の中が「仕事をきちんとやらなければ」ということと悩みとで忙殺されている。そうなると、今やっていた仕事の途中で次の仕事に移ってしまい、それもまた何かをきっかけに途中で忘れて次の仕事に取り掛かってしまい、という状態に陥りました。テレビで報道される「片づけられない主婦」のようですね。しかし本当にある瞬間、そういう状況に陥ってしまった。
一度、バイト仲間に僕のわたわたした言動っぷりを指摘され「小笠原君て、何かに追われてるの?」とジョーク的ツッコミでいわれた事があり、まあそれは仲間にも笑ってもらえたんですが、その「何かに追われてる」ような仕事ぶりは、しばらく続いていたように思います。いや、はっきり言えばバイトをやめるまで、ずっと続いていたように思う。その追われ感は何に集約されていたかと今思うと、どうやら「自分がいつまでも仕事を覚えていられてない、臨機応変に動けないことがいつかバレるんじゃないか」という不安だったように思います。上手く出来ない自分、ごまかしてる自分をいつかズバリ指摘されてしまうんじゃないか。そういう不安が前提としてあって、その裏返しのような形として追われ感が表出していたのではないか。
自分がいつかしでかすかもしれない失敗をリアルに予測して見越してしまっていて、その未来が着実に来てしまうような感覚にとらわれている。その日がいつか来てしまう。しかしながら、それとは別に、常に日常の煩瑣で煩雑な締め切りも毎日こなさなければならない。もちろんその日常の締め切りについても、自分が失敗するかもしれない、ボロが出るかもしれないという恐れの変数がかかってきている。このような複合的な締め切りプレッシャーが、心理的にと言いましょうか、それがひきこもりの内面には常にがんと座して存在しているといえると思います。
ですから、ひきこもりが外に出ようとしない、行動を軽視しているように見える、経済的なことを何も考慮してないように見える部分があるとすれば、それは「永遠に終わりそうにない締め切り襲来感覚による重圧」によって、動けなくなってしまった姿なのではないでしょうか。
先に「焦らずゆっくり」という応援の仕方が主流であるかのように書きましたが、そういったことからしまして「まず、締め切りを意識しないこと、それをもってしてワンクッションとすること、移行段階とすること」という意図が有効である、と言えるのだろうと思います。
ただそれもやはりあくまで煮詰まったひきこもり状態から解き解すための方法でしかないため、現実的な問題としては”世間様”が外にでんと仁王立ちで控えている訳です。「焦らずゆっくり?知るか!ゆっくり出来るのは金で勝ち得た自由とくたびれた果ての引退以外には有り得ん!」と(ひきこもりはくたびれた果ての早期引退でもあるわけですが)。また「焦らずゆっくりやっていてなんとか安心感にこぎつけたけど、気づけばもう30歳、実際外に出たら年齢制限でどの仕事も断られる」という現実が出てくる。ここでまた現実の厳しさに自閉し、ようやく得た安心感も簡単に崩壊してひきこもりに舞い戻ってしまうのではないか?個人的には、また自分の理想の形として、それまでに構築した安心感や味方は存在するという事実を元手に「締め切りなどそもそも存在していなかった」「世間などそもそも存在していなかった」というような類の思いに至れれば最高だと思うのですが、どちらかというとひきこもりに舞い戻ってしまうこと、それの方が非常に普通に――それもかなりリアルに――有り得ることだと思います。
すると、そのような事が有り得るのであれば、ひきこもり初期の段階で、一秒一秒の焦燥感もやむなしとして、苦悩を味わいながらも日々の締め切りをこなしていく生活を取るしかなかったのではないか。そういう疑問が出てくる。
ここで立ち返らされる問題点は、「最初から生きにくい感性を持った人間は、社会の枠組においてはどうあっても生きにくくしか生きられない」という事になるのかもしれません。ではどうすればいいのか。
僕としては、中島義道の提言、すなわち「働くことが義務だとか、意味を考えるとか、価値とか、そういうのは甚だ疑問だ。しかし、働く以外にはもはや何も方法はない。」と言う事でしかまとめられないような気がします(中島の言ってる事がそんなことだったかどうか、ちょっと曖昧なんですが)。ここでの「働く」は、「生きる」という言葉に置き換えてもいいんですけれども。
まあとにかく、ひきこもりに締め切り意識のなさが見えるように感じるのであれば、それは逆説的に締め切り意識に襲われすぎの状態か、あるいはそこからの脱却を図っているそのプロセスである、とひとまず理解していただければと思います。
