![]()
「第9話 視点」
今朝も晴れだった。ラジオ体操ではないが、それは本当に素晴らしい朝で、希望の朝だった。私は喜びに胸を広げて、青空を仰いでいた。だが、私は会社に向かっていたのではない。私は家の前にある一本松公園に向かっていたのだ。そして私は公園の中に入ると、真ん中にある大きな松の木の下にあるベンチに向かう。だが、今朝はいつもとは違っていた。私は、なんとそのベンチには座らず、その上に立ち上がったのである。だが私は発狂してしまっていたのではない。そうなる寸前ではあったのかもしれないが。私は「少し視点を変えてみるだけで、人生が変わる!」という、いつの日にかコンビ二で立ち読みしたある自己啓発本の言葉を思い出していたのだ。もう少し高い視線から世界を眺めてみれば何かいいことがあるかもしれない、と思ったのだ。それはまさにインスピレーションだった。それはまるで天が、私にもっと高く昇りなさい、と言っている様だった。人生はともさかりえの歌ではないが、エスカレーションだということだ。ほんの少しだけでもいいから見方を変えることによって、人生が180度、劇的に変化することもあるのだから。
私はベンチの上に立って周りを見渡していた。だが何かおかしい。私の周りの世界は何も変わりはしなかった。前によく見えていなかったものが、見える様になると思っていたが、そんなことはなかった。例えば公園の前にある家のベランダに干されているであろう下着が見える様になったわけではないし、この公園生活から抜け出そうと思える様な素晴らしい街の景色が見えたわけでもなかった。だが、よく考えてみればそれは当たり前のことだった。私はずっと座高が高かった。子供の時から。ベンチの上に立ってみた所で、それほど景色は変わらなかったのだ。く、くそう。私は怒り狂いながら、ベンチの上で何度もジャンプをした。だがジャンプをしても、私には新しいものなど何も見えない。足が短いということは、なんと惨めなものであろうか。「もう、だめだ・・・」私はついに全てを諦めよう、と思った。私は地面にひざを付いて、倒れる寸前だった。だが、その瞬間、また天のインスピレーションを私は聞いたのだった。神様は私を見放してはいなかった。そ、そうか・・・助走をつけてジャンプしてみたらどうだろう、と脳裏に神的なアイデアが浮かんだのだ。そしてすぐ、私はベンチから数メートル離れて、ベンチに向かって走り出した。思いたったら、すぐ行動に移す私。この私の素晴らしい行動力を誰か褒めてはくれないものだろうか。「う、うおおお!」私は渾身の力を込めて、ベンチを蹴って、跳んだ。両手を広げながら。「おおおお!」私は自分が見ているものを信じることができなかった。空に浮いている瞬間、すべてがスローモーションに変わってしまったのだ。「こ、これが、あのゾーンというものなのか、昴!」と私は心の中で絶叫していた。(「昴」は私が大好きな曽田正人先生の作品の一つで、大変お薦めなのだが、立ち読みは絶対しないほうがいい。熱すぎて、手汗で本が傷んでしまうからだ)その時、私は鳥と化していた。公園にいつもたむろしている鳥の仲間の一人に私はいつの間にか同化していたのだ。「わ、私たちは仲間だったんだね・・・」とそんな声が聞こえた。そして、私はこう思うことができたのだった。この世界では、どんなことでも可能だ、と。どんな所までも私は飛んでいくことができるのだ、と。最高に気持ちがいい瞬間だった。しかし、悲しくも長くは続かなかったが。それはたったの一瞬で、0.89秒ほどだったと思う。まだまだ力不足である私は、ゾーンをコントールすることはできず、現実の世界にすぐ戻ってきてしまった。地面に倒れた私は、すぐに起き上がる。も、もう一度だ・・・私は助走をつけようともう一度ベンチから離れようとした。だが、もう私には体力も精神力も残っていなかった。私の両肩にあったと思った羽はもうなかった。私はそのままベンチの上に倒れた。そして鼻からは鼻水が、そして目からは涙が流れていた・・・
その夜、痛んだ体と心を静養させながら、私はある重大な勘違いをしていたのかもしれないと悩んでいた。もしかしたら「視点を変える」という天の言葉はメタファーだったのではないか、と。つまり、身体的な視点を変えるのではなくて、心の中の視点を変える、ということだったのではないか、と。実際にジャンプするのではなく、心の中だけでジャンプすればよかっただけなのだ・・・今朝のあの苦しかった努力は間違いだったのではと思うと空しくなった。だが逆に、実際は心の視点を変える方が難しい、ということも学んだ。具体的に心の中の視点を変える、ということはどういうことを意味するのか、誰にも分からないからである。私はその夜一睡もせず考え抜いた。そして私が出した答えは、こういったものだった。それは視点を変える、ということは一人称から三人称に変えてものごとを考える、ということだった。自分が苦しんでいる時には、考えを「私」から始まらせずに、「田中ぷーのすけ」で考えてみる。そうすると、不思議な事に、現実との距離を保つことになり、それほど苦しみを感じなくなる。例えば、「私は友達が誰もいなくて悲しい」と言うよりも、「田中ぷーのすけは友達が誰もいなくて悲しい」と言った方が、気が少しラクになる感じがする、と思う。今でも「ミッチャンは~」などと三人称で自分を呼ぶ若い女子もいるが、きっとそれは身を守るためのメカニズムの一つなのではないだろうか。また、ドラゴンボール的に言うとすれば、孫悟空の視点で世界を見るのではなくて、天から下界を見下ろしている神様の視点で世界を見てみるのである。もしくは宇宙全体を見渡している界王様の視点で。またはそれ以上の鳥山明か。世界中で生活している人間というキャラクターを眺められる様になると、自分よりももっと不幸な隣人を探すことができるようになり、自分の苦しみなんてバカらしい、と思える様になる。例えば、オールニートニッポンの伝説となっている絶望男・白井勝美さんの人生に比べれば、ささいなことで悩んでいる自分が恥ずかしくて目もあてられない、と私は思うことができた。そして、これは重要なテクニックだが、カメラのズームの様に、自分にとって嬉しいことや楽しいことがあった時だけ、一人称に戻すことができる柔軟性が大切だ。気持ちいいことは一人称で考えて、楽しむべきだと思う。小説でもそうだが一人称の方が、臨場感が出る。これと同じだ。人生も。この様に考えると、もう怖いものなんてない、なんでもドンとかかってこい、という感じなのだが、視点を広くしすぎてしまった私は、ある一つの懸念を抱いた。ある人が私にこう忠告するかもしれないと思ったのだ。「そ、それってただの精神分裂症じゃないのか?お前、本当は精神科に行ったほうがいいんじゃないか・・・」
