「老人ホームの体験談」
作:工藤興市
俺が働いた特別養護老人ホームは、認知症、障害者の方(目が見えない、半身不随)など様々な最高100何歳のお年寄りがいたわけ。本でも書いたけど、初日に2階のホールをエレベーターから降りたときに、帰ろうと思ったわけさ。
だって、70人近くのお年寄りが車椅子で、センターのホールで食事をとろうとしてたのね。
俺はスキンヘッドにしてるから、認知症の方はお迎えが来たと思って俺見て祈るわけよ。
・・・。
ボケることもよく分かってないし、無理やり介護の世界に自分が勉強したいだけで入らせてもらったから、正直ビビった。
だってすごい世界なんだもん。
他人の沢山ある入れ歯を初めて洗った。
目の前でウンコをしているポータブルトイレを回収した。
ドアは暗証番号でロックされていて、その解除番号を押さないと、部屋を行き来できなかった。
大人数のエプロンを、見たこともない大きな洗濯機や、乾燥機で洗ったり干したりした。
朝各お年寄りがいる部屋を回っている時(洗顔介助というのがあって、オシボリで顔を拭いて回る作業があるのだ)重度の認知症の方にいきなり殴られた(笑)
ただのAV男優だよね、俺・・・・・?
特に驚いたのは、深夜徘徊する重度の認知症の方が、人形を持ちながら、深夜叫び回って歩いている光景に出くわした時だ。
その方は女性で、旦那さんはちゃんとされた方だったんだけど、奥さんは壁にウンコを塗りたくり、裸で町内を歩き回るなど、手におえない状況だったらしい。
結婚して60年。旦那さんは何年も介護していたそうだ。
たった一人の人を愛した旦那さんには、断腸の思いの選択が老人ホームだったんだろう。
だって離れたくないのは、訪問の回数や奥さんに接する態度で分かった。
その目だ。
奥さんを見つめる目。
ボケた奥さんは、何を見ているのか分からない。
でも旦那さんは、禿げた頭で、ずれた老眼鏡を直しもせず、いつも優しい目で、奥さんだけを見ていた。
でも奥さんはどうだろう?
旦那さんの記憶はないのだ。
脳に残る記憶。
それは、初恋の人だったから・・・
深夜徘徊していた人形を持った女性は、初恋の人の名前を叫びながら歩き続けていたんだ。
それに気付いたのは、かなり後だったんだけど。
それを承知で、旦那さんはボケた奥さんのその初恋の人を何年も演じてたことを職員さんに聞いた時は、地下の休憩室で泣いたよ。
そんな愛なんか初めてだったから。
それから2ヶ月ぐらい経った時に、俺は真のSEXを見たんだよ。
朝の洗顔介助をしていた時、たまたまその旦那さんが来ていて、いつもの様に暴れまわる奥さんを見ていた。
オシボリを振り回し、初恋の人の名前を呼ぶいつもの光景だ。
「こら、暴れちゃいかんよ」
「○○さ~~ん!!」
「ほら、職員さんに迷惑かかるから」
「○○さん!何で特攻したの?零戦!!!零戦!!」
「ほら、ちょと待って、今ここにいるよ?俺は○○だからね?」
とても見ていられなかった。
酷すぎる。
何で奥さんの初恋の人を演じなきゃなんないわけ?
俺は、怒りにも似た感情だった。
複雑な感情でそのやり取りを見ていた。
その時だった。
泣きながらよだれを垂らした奥さんが、突然優しい目をして、旦那さんのずれた老眼鏡を外して、優しく右手に握っていたそのオシボリで、顔を拭き始めたんだ。
呆気にとられた皆の空間。
でも数十秒後には感動に変わった。
「ありがとうよ。今までね。ありがとうよ。ごめんよ。私ようわからんね。寅蔵さんにお世話になったのに、ようわからんね」
寅蔵は、旦那さんの名前だ。
その場にいた誰もが無言で寅蔵さんを見つめていた。
寅蔵さんが何言ったと思う?
泣いている奥さんに向かってこう言ったんだよ。
「わしもようわからんから大丈夫だよ」
職員も他の訪問に来ていた家族も、その場にいた正常な意識を持ったお年寄りも、皆込み上げる涙を押さえることはなかった。
だって、他人の名前じゃなく、旦那さんが呼んで欲しかったのは、絶対自分の名前だったはず。
それを現場全ての人間が分かっていたからだ。
何年もかかったかもしれないけど、たったひと時の神様の気まぐれかもしれないけど、自分の名前を呼んでくれたその喜び・・・
俺は声を出して泣いたんだ。
心の底から泣いたんだ。
あの時の旦那さんの顔は今でも忘れない。
綺麗な皺くちゃな笑顔だった。
ありがとう。
