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投稿原稿「毎朝、私は会社じゃなくて公園に行って考える 第6話 アリ」

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「第6話 アリ」

午前9時。東京のありとあらゆる場所で一日が始まろうとしていた。会社では社員の誰もがコンピューターを立ち上げて、電話が鳴り始めるのを待っている。学校でも、生徒の誰もが教科書を開いて、先生が話し始めるのを待っていた。私はこの一日が輝きだす瞬間が大好きである。興奮しているのだが、心の深い所では落ち着いていて、なおかつ喜びに溢れている。そんな気分である。生きていてよかった、と思う。しかし私はその朝会社にいたわけでも、学校にいたわけでもない。私は自分の家のすぐ前にある一本松公園の中で、一人ベンチに座っていた。そしていつもの様に、雲一つない空をずっと眺めていた。


そして公園ではアリたちも仕事を始めていた。アリも人間と同じ様に、夜は巣の中で休息し、朝になると活動を開始するのだそうだ。私の足元では、セミの死骸をたくさんのアリたちが協力して巣へ運ぼうとしていた。「なんて健気なヤツらだ」と私は感心していたが、どうしても自分のいたずら心を抑えることができない。私はそっとそのセミの死骸を指で掴んで、ベンチの後ろに放り投げた。せっかくのご馳走が目の前から一瞬で消えてしまうという恐ろしい経験は自分では絶対にしたくないと思っているが、右往左往するアリたちを見ているのは面白かった。しかし25歳にもなって朝から公園でアリと遊んでいるなんて、私はきっとバカか天才どちらかに違いないが(きっと後者だろうと信じたいが)、私の人生がこんなことになってしまうなんて、私が学生の頃には夢にも思うことができなかった。恥ずかしい、を通り越して情けない、と言ったところか。「お前もそろそろアリのように勤勉に働きだしたらどうなんだい」という声が聞えてきそうだが、私はどうせ働くならアリの様にではなくて、人間らしく働きたい。だが人間らしく働くとは具体的にどういうことを意味するのだろうか。


「アリとキリギリス」の話は誰でも聞いたことがあるはずだが、簡単に言うと夏休みになっても遊ばずにこつこつと勉強したアリさんは就職氷河時代でもなんとか就職することができたが、その頃遊びまくっていたキリギリスさんは就職することができず死んでしまった、という話である。 私はこう思っている。「人生はあっと言う間なのだから、遊べる時に遊んで青春を謳歌し、悔いのない人生を送ることが大切だ」というのがこの寓話が一番言いたかったことだと。人間はいつ死んでしまうか分からないから、今をいかに生きるかが究極のテーマであるはずだ。しかし誰もそのことを語ったりしない。世界中のほとんどの人はこのアリさんの様な、将来のために今を犠牲にする生き方を素晴らしいと思っている。しかし、もしこの瞬間に幸せと思うことができなければ、未来でも幸せと思うことはできないのではないだろうか。そして私は絶対にアリさんの様に冷たく生きたくはない。アリさんはキリギリスさんを助けることはなかった。「お前が若い頃、女を追いかけまくって遊んでいた時、俺はがまんして勉強していたんだ。今俺がいい思いしないと面白くないんだよ」といった心境だったのだろう。その気持ちは分かる気もするが、何か寂しいな、と思う。そして悲しいことだ、とも思う。「見返してやりたい」と人生を生きるよりも、過去は忘れて生きる方が人は幸せな人生を送れるはずなのに。


その様にしてアリは「勤勉で、計算高いことは素晴らしい」という価値観を象徴する生き物になっているのだが、実際はアリにも色々なアリがいて、アリ全員が働き者ではない、という事実はあまり知られていない。まずこれは当たり前だが、アリの社会だって格差社会の一つで、女王アリ、雄アリ、そして働きアリと身分制度が存在する。働きアリは全員メスだが、毎日雄アリと遊んで暮らしている女王アリの奴隷の様なものである。しかし最も興味深いのは働きアリの間でも全く働かないで生活しているアリがいる、ということである。ある研究によると(実際どの様な実験だったのか私には分からないのでその研究結果の信憑性を疑うことはできないのだが)働き蟻の集団の2割は働き者で、6割は普通。そして最後の2割は全く働かない、のだそうだ。そして、働き者の2割だけを集めて新しい集団を作っても、同じ様にまた、2割が働き者、6割が普通、そして2割が全く働かないと自然になってしまうのだそうだ。


どうして働きアリの2割は働かなくなってしまうのだろうか?この現象はどうしたら説明できるのか私なりに考えてみた。まず考えられるのは、これらの20%の働きアリは老人、子供、もしくは障害者であるということだ。彼女らは過酷な肉体労働はできないから、ただ仲間を見守ることしかできない。次に考えられる理由は、彼女らはただ何もしていない様に見えるだけで、実際はアリにしか聞こえない独自の超音波でコミュニケーションをしている、ということだ。歌を歌い仲間達を喜ばせているのかもしれないし、危険を察知してそれを知らせているのかもしれない。人間の社会で言うならば歌手や占い師の様な仕事をしているのだ。しかし誰もアリが実際に超音波を使っていることを確認することができないので、この説が正しいと証明することは難しいだろう。


そして最後に考えられるのは(そして私はこれが一番有力な説だと思っているが)この20%の働きアリは働けるけれど働かない、つまりニートアリであるということだ。しかし疑問は残る。どうして彼女達はニートになるのだろうか、という疑問だ。私の考えでは、それはアリの集団生活を永続するためのシステムの一つだから、ということだ。どんなことでも100%の状態でいることは危険なことで、80%ぐらいのほうが様々なことに順応に対応することができる。例えば、もし働きアリが全員フルに働いていたとしたら、地震や洪水といった天災が起こった緊急事態には対応が遅れてしまう。そしてもっと大切なことがある。それは、働きアリの精神的余裕が生まれる、ということだ。5人に1人はニートをやっているから、もし自分がどうしても前に進めない時は、誰にでも相談できるし、少しニートを経験してみることもできる。自分を追い詰めて、燃え尽きたりすることはない。ニートであることは恥ずかしくことでも何でもなく、誰でも経験することだと社会が受け入れているのだ。働くことに苦しんでいる時に「私も若いころニートしたのよ。でも今はちゃんと働いているのよ。私は今幸せよ」と相談相手に言われるとどんなに気がラクになるだろうか、と思う。もし、そういった社会のセーフティーネットがなく、働きアリたちが全員ひたすら働くことしかできなかったらどうなるだろう。そのうち不満が溜まりに溜まって、集団自殺、テロ行為、もしくは大革命と、大混乱が起こってしまうに違いない。そうして、そのアリの集団は滅びてしまうだろう・・・


人間の社会も同じではないだろうか。「ニートしているのか、ははは」と笑い飛ばせるぐらいの精神的余裕が私たちには必要である。朝から公園でフラフラしながらのんびりと生きている人がいるから、社会は暴走せずに安定していられるのである。もちろん私は自分の生き方を正当化しようとしているのではない。私は自分が思っていることを素直に述べているだけだ。そして私はこう言いたい。ニートは日本社会のヒーローである、と。ニートは何もしていない様に見えるが、社会という集団生活の中で「何もしない」という役割を立派に果たしているのだから・・・

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2009年09月24日 13:10に投稿されたエントリーのページです。

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