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投稿原稿「毎朝、私は会社じゃなくて公園に行って考える 第7話 オリのクマさん」

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「第7話 オリのクマさん」

私はたまに(と言っても毎日だが)、「う、うおおおお!」と大声で叫びながらどこかへ逃げ出してしまいたい、と思うことがある。だが叫び声は私が小学生の時から愛読して止まない「ジョジョの奇妙な冒険」の中に出てくる様な忘れようとも忘れられない擬音的セリフでもかまわないと思うし、また実際その方がより切羽詰った印象を与える事ができるのでいいのかもしれない。「ウリリィィィ!」なんて生々しくていいと思うが、どうだろうか。「オラオラオラオラオラ」でもいいと思うが、そのセリフは誰もが知っているので少し恥ずかしいかな、とも思う。道端で小学生にバカにされてしまうかもしれない。それならば「ズキューン・・・」はどうだろうか。きっとこれが一番いいだろう。


そして私はこうとも思う。今までの人生で起こったイヤなこと全てをまとめてゴミ袋に詰め込み、燃えるゴミとして捨てることができたらどんなにいいだろう、と。今までの人生で起こった別にイヤなことではないが、特に素晴らしくもなかったという思い出も全て、粗大ゴミとして捨ててしまうのだ。そして、わずかに残った、いい思い出だけをリュックに詰めて、新しい街で人生をやり直すための旅に出る。この現実から逃避したい、と切実に思う。もうこんな毎日はごめんだ。だが実際は、そう思うだけで行動には移せない。今日は燃えないゴミの日ではないというのが、その理由ではない。また、貯金がすでに微々たるもので例え逃げ出すことに成功したとしても、カプセルホテルでたったの1週間しかもたないだろう、というのも(それは事実だが)その理由ではない。やろうと思えばなんだってできるのだ。本当にそう願っているなら。ならばどうしてできないのか。理由は簡単である。私にはそんな勇気はないから、だ。私にはそんな恐ろしいことはできないのだ。それはまるで私の高校時代(童貞時代と言ったほうがいいかもしれないが)の時の心境と同じなのだろうと思う。つまり、たとえどんなにある女性のことを深く愛し、また愛されたいと思っていたとしても(つまりこれはあるウブな文学少年がその女性とエッチしたいということを婉曲に言っているだけのことであるが)、自分にはそんなことができる訳がない、また逆にそうなってしまったら幸せすぎて死んでしまうのではないかと心配でしょうがない、などといった無数の考えが心の中で同居して、そして対立し、もう何を考えていいのか分からず、ただこんな切ない恋愛をしている自分はなんて哀れなのだろうかと勝手に陶酔している時の心境と同じなのだ。よく分からないかもしれないが。そして今日も、私は朝から一本松公園のベンチにずっと座っていた。遠くまで風に乗って走っていく雲たちを目で追いかけながら。小学校では「世界はこんなに広いのか!」と世界地図を見ながら私は学んだ。だが、今私が存在している世界はこの小さな公園だけだった。そして私はここから出ることができない。どんなに出たいと思っていても。そしてただ時間だけが過ぎていくだけ・・・


「オリのクマさん」の話を聞いたことがあるだろうか。「森のクマさん」ではない。「オリのクマさん」である。話は似ているのだが、全くの別物である。どこの国の話だったがもう忘れてしまったが、ある時、若くてかわいい女の子が森の中をたった一人で遊んでいた。「どうして君は一人で遊んでいたんだ!俺に電話してくれたら一緒に遊んでいたのに」と私は思わずにはいられないが、そういうことを思うのは私だけではないはずだ。もしかしたら、彼女は少し知恵遅れだったのかもしれない。そして、彼女は不運にも森のクマさんに遭遇してしまう。私なら寝たふり、もしくは死んだふりをしたと思うのだが、彼女はやはり頭が少し悪かったのだろう。彼女は走って逃げ出した。森のクマさんは彼女を追いかける。しかし森のクマさんのは足がとても速いので、彼女はすぐ追つかれてしまう。「ああ、絶体絶命・・・」と彼女は死を覚悟するが、なんとその時、森のクマさんは彼女が落としたイヤリングを彼女に見せながら、こう言うのである。「ほらほら。あなたのイヤリングだよ。よく見てみな。へへへ・・・」死ぬ、と覚悟した瞬間に、自分が気付かない間に落としていたイヤリングを見せられる心境を想像してみてほしい。彼女は本当に発狂してしまった。そして彼女は一生死ぬまで「ラララー」とその事件について歌い狂い続けたのだそうだ。無理はないことだと私は思うが、なんて可愛そうなのだろうと私は同情する・・・そして彼女の家族や友人は森のクマさんをどうしても許すことができなかった。死ぬよりも苦しい思いをさせてやる、と森のクマさんを捕らえて、オリに閉じ込めた。「ただイヤリングを拾って返してあげただけなのに・・・」と彼は涙を流しながら自分の無実を叫ぶのだが、この世は無情なものである。彼はそのオリの中で何年も過ごした。しかし本当の悲劇はそれからだった。オリに閉じ込められてから5年程過ぎたある日のこと、ある動物愛護団体がその村を訪れて、森のクマさんをオリから解放してあげることにした。「もう苦しまなくていい。今、お前は自由になった」とオリの扉は開けられたのだが、彼はどうしても出てくることができない。どうしても出てくることができないのだ。「お化粧が・・・」「もう一度着替えるから待って・・・」などと言っているのではない。それはもっと深刻な問題だった。彼はオリから出て、もう一度外の世界で生活していくことを恐れていたのだ。「また私の人生を台無しにする頭の悪い女の子と出会うかもしれない・・・」と彼は思っていた。オリの中は自由がなかったが、どこよりも安全だった。オリの中に入れられることは理不尽なことだったが、オリの中ではそれ以上理不尽なことは決して起こらなかったのである。扉はずっと開いていた。しかし森のクマさんはずっとそこから出ることはなかった。そしてそのまま彼は飢え死にしてしまったのである・・・


働いている人も働いていない人も、ほとんどの人はこの「オリのクマさん」の様に生きていると私は思っているが、誰もそのことを認めようとはしない。誰も「実は自分も引きこもりだ」と思いたいとは思わない。その気持ちは、私にはよく理解できる。なぜなら私もその一人なのだから。毎朝フラフラして、どこにも行くことができない私は公園のクマさんである。たとえどんなに私はこの公園から出たい、と思っていたとしても、心の一番深い所で何かが私の邪魔をするのだ・・・「人間は25歳になったら誰もが死ぬ。そして残りの人生を自分のお墓を立てるために過ごすのだ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。誰がこの言葉を言ったのか私は知らないが、その通りだと思っている。25歳頃になると大抵の人は人生を冒険することを諦めてしまう。恐怖によってオリの中から出ることができなくなってしまうのだ。たとえ勇気を持って一歩踏み出すことができても、わざと自分からオリに戻ってきてしまう。そして死ぬまでそのオリの中で過ごす。誰もが傷つくことを恐れ、安全に生きようとする。自分の世界で生きていれば、絶対に傷つくことはない。自分を完璧に守りきることができる。しかしそうすれば一生夢を叶えることなどできはしないし、自分の本当の可能性を知ることもない。私たちは何も新しいことを学ぶことはないだろう。そして、私たちはそのまま死んでいくだけ。本当は、どんな時でも、この素晴らしい世界は両手を広げて私たちを待っているのに・・・

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2009年09月24日 23:26に投稿されたエントリーのページです。

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