![]()
「第5話 缶コーヒー」
あの朝も、私はいつもの様に一本松公園にいた。だが、あの日はいつもとは違っていた。作業服を着た20代の男たち3人が、私がいつも腰掛ける松の木の下のベンチでたむろしていたからである。「俺の領域に勝手に入ってくるな!」と言えたらどんなにいいだろう、と思う。私には勿論そんな度胸はない。仕方がないので、私は公園の一番隅にあった花壇の仕切りの上に座ることにする。無職とは社会の隅っこに生きるようなものだが、公園の中でさえも隅っこに居なければいけないと思うと悲しかった。朝からこんな惨めな気分になるのはいいことではない。しかも私の尻は痛む。すごく痛むのだ。もう座りたくない。なんて私は情けない男なのだろうか。しかし私はすぐにこう思い直すことにした。もしそのことが悔しければ戦えばいいではないか、と。一人で泣いている暇などない。男らしく、彼らにこう言えばいいのである。「ここは俺の領域なのだから出ていけ。ベンチの裏にも俺の名前がマーカーでちゃんと書いてあるではないか」と。もちろんそんなことある訳ないのだが、デタラメでもいいから主張してみればいい。「領域なんてあるかこのボケ!」と罵られながら、ボコボコにリンチにされてしまうかもしれないが、一人でメソメソと泣いているよりかはましである。
私が無職になって間もない頃の話だが、ある夏の夜、星空を一人で眺めながら、私はある一つのことを自分自身に誓った。それは人生に絶対に妥協しない、ということだった。イヤなものにはイヤだと言う。そして好きなものには好きだと言う。そして本当にやりたいと思っていることがあれば本当にそれをやってみる。どんなに不可能だと思えることだったとしても、せめてできる限りの努力をして。たとえそれがどんなに小さなことであっても。これは実際にやってみると難しい。難しいのだが、その様に生きる重大さは計り知れない。
例えば、私が住んでいるアパートのすぐ前にある自動販売機には「缶コーヒーのボス」がない。サラリーマンの誰もが愛して止まないこの伝説の人気商品「缶コーヒーのボス」がない自動販売機は日本中くまなく探したとしても見つけることは難しいだろう。私は自分の目を信じることができなかった。「そんな下手な商品選びで利益が出せるわけがないからもう一度よく考え直せ」と私はその自動販売機のオーナーのセンスに失望したが、そのオーナーはただのバカではなかった。そこの自動販売機には「午後の紅茶 ミルクティー」はあったのである。私は迷った。迷いに迷ったが、私はどうしても「缶コーヒーのボス」が飲みたい、と思った。「午後の紅茶 ミルクティー」も大好きだが、どうしても「缶コーヒーのボス」を諦めることはできない。どうしてもあのほろやかな香り、そして心が癒される様なあのひとときを忘れることはできないのだ。
私は覚悟して、走り出した。1丁目、そして2丁目と景色が変化していくが、私の目にはもう「缶コーヒーのボス」しか映っていない。角からものすごいスピードで車が曲がって来ていたが、私はすぐ気付くことができなかった。「う、うおおお!」私は叫びながら、地面にダイブする。危機一髪だった。プップーとクラクションが鳴り響く。その光景を目撃していた、近くを歩いていたおばあちゃんはびっくりして買い物袋を地面に落としてしまった。ばらばらと、キュウリやトマトが道路に散乱した。そして「なんだこのきちがいは」とでも言いたそうな顔で私を見つめていた。だが、もう遅い。「人が何かを達成しようと思ったら、何かを犠牲にしなければいけない」と昔何かの漫画で読んだセリフが脳裏によみがえる。もう誰も私を止めることなのできないのだ。私は走り続ける。おばあちゃん、許しておくれ。私はゴールに向かってひたすら走り続けるのみ、である。そしてついに私はローソンに辿り着く。私はもの凄い勢いでドアを開ける。いらっしゃいませ、という店員の言葉も聞こえない。私は店の奥に突進し、棚に煌煌と並んでいた「缶コーヒーのボス」を手に取った。そしてすぐ、会計をすまして、外に出る。そしてローソンの前の段になっている所に私は腰掛けて、プシュと缶を開く。そして私はいっきに飲み始る。私の目からは涙が溢れ出ていた・・・
「缶コーヒーでそこまでやるか。よっぽどの暇人だなお前も」と思う読者もいるかもしれない。しかし例えどんなに小さなことでも、自分がああしたい、こうしたいと望んでいるものはいつか必ず実現するもので、そしてそうやって欲望を満たすために人生を生きることは悪いことではない、と考えることは間違いではないはずだ。「本当はああしたいのだけれど、時間がないから」「本当はあれがほしいのだけれどお金がないから」などと自分に一度でも嘘をついてしまうと、たとえそれが缶コーヒーという本当にささいなものであったとしても、私たちは自分たちの心を見失しなってしまう。そして私たちの欲望は満たされなくても当たり前で、そういった欲望を持つ事自体恥ずかしいことだ、と考える様になってしまう。そして、そういったことをずっと続けていると、どんどんとそれが積み重なり、いつの間にか「何でもどうだっていいや」と感じる様になってしまう。そしてそういった態度は私たちを無気力にさせる。これは危険なことでもあるし、悲しいことでもある。私たちはもう生きる意味さえも忘れてしまうが、もしそうなるともう人生も社会も発展していくことはない・・・
私はそんなことをずっと一人で考えていたのが、ついに勇気を出して、立ち上がり、いつも私が座っているベンチに座らせてくれないかと交渉することにした。しかし私が顔を上げると、彼らはすでに公園を去っていた。公園のすぐ目の前にある敷地で新しい家を建てる工事が始まっていたので、彼らはそこで働いているに違いなかった。よかった、無駄な血を流さず(もしくは犬死をせず)にすんだ、と私は喜んだ。そしてそのベンチに座って、空をずっと眺めていた。今日もまた一日が始まるのだ。世界中で。そして人々はたった二つのことをやるだけ。その人がやりたいこと。そしてその人がやりたくないこと。本当はたったそれだけのことなのに・・・
