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共産主義、入門中 第6回「映画『こぼれる月』」

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第6回 映画『こぼれる月』
 
 坂牧良太監督の『こぼれる月』が、GyaOというサイトで見れるようになっている(10月27日まで)。精神的な問題を抱えている(抱えていた)四人の若者が登場する映画である(以下、ちょっとだけネタバレがあります)。
http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0031510/
 
 映画の冒頭に、強迫神経症とパニック障害の説明が映し出される。こんな感じだ。


強迫神経症
つまらぬ考えや、感情などが頭にこびりついて、抑えようとしても不可能な症状を主とする神経症。また、頭にこびりついた考えを振り払うために、意味なく何回も手を洗ったり、歯を磨いたり、同じ場所を往復するなどの行動をおこす。これを強迫行動という。

 これを見て、精神病についての啓発映画でも始まるのかと思ってしまった。しかし実際に最後まで見てみると、強迫神経症などの「典型例」をわかりやすく提示しようなどという映画ではないことがわかる。
 
 むしろこの映画の特徴は、「わからなさ」にこそあると思う。この映画を見ても、「パニック障害とはこういうものだ」などと「理解」したり、「PTSDにはこのような対応が求められる」といったような「教訓」を引き出すことは難しいだろう。
 
 また、なぜ病気になったのかという「原因」も、レイプ被害との関連が示唆されている女性を例外として、説明されていない。これについて、石井志昴さんは次のようにコメントしている。

……主人公たちがはじめから「心の病」を持つ設定に残念な思いがした。なぜ、苦しみはじめたのか。どんな不安や不快が体に募り、自身の根幹を揺さぶっていったのか。怪物のように迫りくる心の闇がなぜ生まれたのか。それが描かれていない。
(石井志昴, 「映画 不登校経験者が監督 こぼれる月」『不登校新聞』, 2003年9月1日, p. 6.)

 ここで、石井さんは病気には原因があるはずだと考えている。そして原因を描いていないという点でこの映画が「残念」なものであるという。
 
 けれども「原因」とは何だろうか? たとえばインフルエンザであればウイルスが原因だろう。そしてそのウイルスに対処するタミフルを打てば、治りが早くなるかもしれない。だがそのような発想は、人間は本来ならば正常であるべきで、病気になるには何か理由があるに違いないという考えを前提にしているんじゃないだろうか(「正常」という言葉の意味からすればこれは当り前のことかもしれないけど)?
 
 この映画の登場人物の一人である高(たかし)は、恋人の首を絞めるという強迫観念に悩まされていて、それを振り払おうとして手洗いなどの反復行動がやめられなくなってしまう。彼がなぜそのような状態になってしまったのかという背景は全く描かれていない。高と医者との会話から、彼が長くにわたって病と共に生きてきたということは推測できる。彼は医者に「治そうとするなよ」と言われている。彼にとって病気とは一生続いていくかもしれないものなのだ。そのような彼にとって、「原因」を特定することにどんな意味があるのだろうか?
 
 もし「原因」があるのであれば、それのせいで高は本来あるべき人生から外れてしまったことになる。だが、この病める日々こそが彼の人生に他ならないのだとしたら?
 
 『こぼれる月』は一方で、「病気でもいいじゃないか」などと簡単に病を「肯定」しようともしていない。初めての診察でもう一人の登場人物(千鶴)は「治りませんか」と執拗に尋ねる。これに対して医者はただ「大丈夫」と繰り返す。このシーンは映画の後半に出てくる。けれども観客は、映画の前半で既にこのシーンの数年後の千鶴のとても「大丈夫」とは言えない状態を見ている。
 
 病の美しい面だけを取り出して「肯定」しようとするためには、この映画は役に立たないだろう。イギリスの移民や下層階級を描いた『マイ・ビューティフル・ランドレット』の脚本家であるハニフ・クレイシは、マイノリティについてのポジティブなイメージだけを集めたような作品を「応援フィクション」と呼んだ。そのような作品の作者はいわば「PR係」であり「お抱え嘘つき」である。クレイシはこう言っている。

人種や肌の色が混ざり合い、ヒステリーと憂うつを抱えた今日のイギリスを真剣に理解しようとするのであれば、それについて書かれるものは複雑でなければならない。それは弁明も理想化もしてはならない。それは感傷的になってはならないし、一つの集団だけを美徳を独占したものとして描いてはならない。
(quoted in Stuart Hall, “New ethnicities,” in David Morley and Kuan-Hsing Cohen eds., Stuart Hall: Critical Dialogues in Cultural Studies, London: Routledge, 1996, p. 449.)

 『こぼれる月』は、このクレイシの言う意味で「複雑」な作品であると思う。 
 
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いままでの「共産主義、入門中」

2007.7.13 第1回「宝くじと教育の不平等」
2007.7.23 第2回「努力が報われる社会」にNO!
2007.7.30 第3回「「第三の道」はいらない」
2007.8.8 第4回「仮病で何が悪い」
2007.9.3 第5回「「弱者による暴力」に対する暴力について」
 

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2007年09月25日 12:33に投稿されたエントリーのページです。

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