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第5回 「弱者による暴力」に対する暴力について
このウェブマガジンで、杉田俊介さんの「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて」を読んだ。タイトルからすると内藤朝雄さんに対する個人批判のように見えてしまうけど、実際に読んでみるとより一般的な問題を扱っているようだ。暴力に苦しんでいる人や「弱者」とされるような人、暴力を止めようとする人たち自身が、時として他人に暴力を振るってしまうことがあるという問題だ。ここで暴力という言葉は、殴ったり殺したりするようなことだけじゃなくて、「パワハラ」みたいなことも含む広い意味で使われている。
これは、杉田さんが『フリーターにとって「自由」とは何か』でも問題にしていたことだ。この本は、フリーターを一方的な「被害者」として描くものでは決してなかった。むしろ、「フリーター」の多様性や、野宿者、外国人労働者、障害者との関わりを示し、「フリーターは誰を収奪しているのか?」と問うていた。こんなふうな問題意識から読めば、今回の「弱者暴力との抗争」も、内藤さんを貶めようというよりは、杉田さん自身が抱えている課題について考えたものであると言えるだろう。
杉田さんはこう書いている。「かつて悲惨な被害にあった当事者が、それを理由に、別の人間に何をしてもいい、傷ついた人間が直接間接に他人を傷つけて構わない、とは言えない」。僕は、これに同意する。というか、一般論としては、これに反対する人はほとんどいないだろうし、内藤さんも100%この言葉に賛成するんじゃないだろうか(フリーターの苦しみが解決できないなら「国民全員が苦しむ平等」を求めるという赤木智弘さんは例外かもしれない)。
けれども、僕は共感と同時に警戒心を抱く。というのも、「弱者による暴力」を批判するという名目による暴力の方が蔓延していると思うからだ。
杉田さんも指摘しているように、「弱いものがさらに弱いものを叩く」ことがあるとしても、それが自覚的に行われることはほとんどない。「ジャイアンに殴られて痛かった。だから僕は飼い猫をいじめる」とのび太が言ったとしたら、「いや、それはおかしんじゃね?」と批判することができるだろう。でも、弱者が強者と戦い、暴力に抵抗しているつもりで「さらに弱いものを叩」いてる場合は、いったい誰がそれを「弱者による暴力」であると認定するんだろうか? そしてそのような批判は、「強者」による暴力との関係でどんな意味をもつだろうか?
たとえば、北朝鮮について考えてみよう。北朝鮮はかつて日本による侵略を受けた。戦後も日本やアメリカの軍隊に脅威にさらされてきた。国際的には、北朝鮮は「弱者」である。
けれども、北朝鮮は一枚岩ではない。独裁者が民衆を抑圧している。また、いわゆる「拉致問題」も、国家による個人に対する暴力と言っていいだろう。
北朝鮮の暴力は、かつての大日本帝国の暴力や現在の日本や米軍による脅威に比べたら、規模としては小さなものだ。だがもちろん、実際に独裁者に抑圧されている民衆や外国から拉致された人に対して、「日本の方がもっと悪いから我慢してください」とは誰も言わないだろう。「弱者が仕方なくふるう暴力よりももっと巨大な悪や暴力がこの世にはある、そちらをどうにかすることのほうを優先すべきではないのか」というような言い方を杉田さんは批判しているが、その通りだと僕も思う。
だけど、この「弱者の暴力」に対する日本の人々の批判の仕方には卑怯なものを感じる。日本の人々は、過去の戦争責任も、我々が現在も北朝鮮の人々にとって脅威となっていることも忘れて、ひたすら北朝鮮を叩いている。弱者が「より弱いものを叩」いたことを口実にして、強者が自らの圧倒的な暴力に居直っているのだ。
「弱者による暴力」は、何の脈絡もなく突然現れるわけじゃない。北朝鮮に独裁政権が生まれたことは日本による侵略と無縁ではないし、それが戦後ず~っと続いてきた背景には、日本やアメリカの軍事力がある。
もちろん、独裁者が民衆を抑圧することや、日本人を拉致することは、日本の暴力に対抗するためには何の役にも立たない。むしろ日本の右傾化を進めて、脅威を大きくするだけだ。だが、911テロを見て「ざまあみろ」と思った人が世界にはたくさんいたように、日本の過去や現在のあり方が北朝鮮の独裁者に正当性を与えていると感じる人がいても不思議ではない。北朝鮮の暴力は、日本やアメリカとの関係の中ではじめて存在するのだ。その意味で、日本人もまた拉致問題に責任を負っている。日本にいる我々がまずすべきことは、拉致問題で鬼の首を取ったように北朝鮮を叩くよりも、日本国家や米軍の暴力と向き合うことじゃないだろうか?
暴力は、別々に固まって存在するのではない。暴力は、「弱者」も、「より弱いもの」も、「強者」も、「傍観者」も、一本の線で結んでいる。杉田さんは「私はもう弱者暴力との闘争も辞さない」と言う。そのような「闘争」は、モグラ叩きのようにではなく、この線上で行われなければならないと僕は思う。
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2007.7.13 第1回「宝くじと教育の不平等」
2007.7.23 第2回「努力が報われる社会」にNO!
2007.7.30 第3回「「第三の道」はいらない」
2007.8.8 第4回「仮病で何が悪い」
