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名前はまだ無い 第4回「「ひきこもり」原因論・雑感(2)」

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名前はまだ無い 第4回「ひきこもり」原因論・雑感(2)
 
前回は、これまで「ひきこもり」の原因を追求することは、
多くの治療・援助論において、また臨床現場においても
避けられているということを書きました。
 
そして私も、原因を一般化し類型化するような議論は、
これまで一度もしてきませんでした。
自分のことに限って言えば、
原因を外側から特定することに抵抗があったからです。
しかし、これまでのインタビューで私は毎回、
その人なりの原因についての考えは聞いてきたわけです。
それはなぜか。
 
ということで、つづき。
 
当事者とされる人たちが自身の経験を振り返り、
“なぜ自分はひきこもったのか”を整理することは重要だと、私は考えています。
というのも、そうした作業は彼/女らが現在の自分に折り合いをつけ、
受け容れていく助けになると思うからです。
(もちろん“何でひきこもったのかよく分からないけど、
現にひきこもっちゃったんだからさー”という折り合い方もあり得ますが)
 
前回引用した斎藤さんの見解というのは、
ひきこもった当初の原因もしくはキッカケを特定できたとしても、
ひきこもった時点に戻って人生をやり直すことはできない、
という意味では正しいかもしれません。
でも、今までの人生と折り合いをつけ、この先やっていくためには、
“当人から見た/当人にとっての”原因というのは、
やっぱり大事なのではないでしょうか。
 
そして、それは当事者とされる人たちの経験を理解するためにも、
すごく大事なことだと思っています。
(“なぜ?”“どうして”という問いかけは、
ときに当事者にとって暴力性を帯びるという議論もありますが、
これは、また、何とも、一筋縄ではいかない問題で、うーーん……)
 
私が長いこと「ひきこもり」に関わり続けてきた大きな理由は、
当事者とされる人たちの経験を理解したかったというところにあります。
(じゃあ何で“理解すること”にこだわってきたのかということは、
また別の機会にお話できればと思います)
そして、支援やら援助やらを行なっていく上でも、やはり理解は欠かせないでしょう。
そのためには、“当人にとっての”原因を外してはいけないと思うのです。
 
いずれにせよ原因について語るときには、
それが“誰から見た/誰にとっての”原因なのかという、
視点の問題が重要なのではないか、というのがひとまずのオチです。
すごく単純なことなのですが、意外にこのことが整理されていないために、
「ひきこもり」の原因論は一様に敬遠されがちになっているような気がします。
  
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いままでの「名前はまだ無い」

2007.7.18 第1回「にがてなもの」
2007.7.27 第2回「身もフタもない」
2007.8.3 第3回「「ひきこもり」原因論・雑感(1)」

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2007年08月27日 11:59に投稿されたエントリーのページです。

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