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第4回 「できること」と「すべきこと」(1)
ひとは「できること」の範囲内でしか責任を問われない。これが道徳哲学の一般的な見解である。
例えば、いま目の前に、溺れている子供がいて、川に飛び込めば助けることができそうな状況だ。
あなたが見て見ぬ振りをして通り過ぎたことがバレてしまえば、あなたはその子の溺死について責任を問われるかもしれない。
「どうして、うちの子を助けてくれなかったんですか!」と。
しかし、あなたがもしカナヅチだったら?
川に飛び込んだって助けることはできなかったのだ。助けを呼びに行ったけど間に合わなかった。この場合、あなたはこんなふうに責められるだろうか?
「どうして、あなたは泳げなかったんですか!」と。
だが、「できないこと」について「すべき」とは言えない。
泳げないのだから、川に飛び込まなくてもよかったのだ。
それでも人はこう言って、あなたを責めるかもしれない。
「ちゃんと泳ぐ練習をして、大人になる前にカナヅチを克服しておけば、こんなことにはならなかった」と。
川に飛び込んで泳ぐことは「できなかった」としても、子供の頃に泳ぐ練習をしておくことは「できた」はずだ。あなたは「できる」はずのことを、しなかった。そう言われるかもしれない。
そろそろ本題に移って、例を変えようか。おなじみの話題に。つまり…
ニートの人たちは、本当は働くことが「できる」のに働かないのか。それとも、そもそも働くことが「できない」のだから「働くべき」とは言えないのか。
フリーターの人たちは、本当は正社員になることが「できる」のに、そうしないのか。それとも、今日の厳しい雇用状況のせいで、そもそも正社員になることが「できない」のか。
あるいは本当に、安定した職業に就くことが「できない」のかもしれない。しかしそれは、いい歳になるまで、学歴も技能も職歴も積み重ねてこなかった人の「自己責任」なのであって、今までの人生でもっと努力しておくことは「できた」はずであり、そう「すべき」であったのに、そうしなかったのが悪い。
これに対して反論がなされる。経済的に恵まれない家庭に生まれた人は、学歴を得るために努力することさえ、「できないこと」であったのだ、と。
どちらが正しいだろうか。
これらの中からどの立場を採るかは、どこまでが「できること」であったのかという範囲の確定に関わっていて、それに応じて、「自己責任」にしたり、国家や社会の責任にしたりしながら、人々は論争している。
こういった議論がとても重要なものであることは承知しているけれども、僕は経済や社会の専門家ではないので、本当のところはよく分からない(っていうか「ニートも色々、フリーターも色々」だろう)。
そこで次回は、もう少し違った視点から、ぼくたちが「できること」と「すべきこと」を考えてみようと思う。
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いままでの「プラスの力」
2007.7.13 第1回「初めまして」
2007.7.20 第2回「リアクションからアクションへ」
2007.727 第3回「世の中を変えるか、自分を変えるか」
