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いきすべき批評 第4回「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)」

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第4回 弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)」
 
 内藤氏はたぶん、痛々しく神経過敏で、とてもよわよわとした人なのだと思う。自分の弱さに気付くことさえ出来なくなってしまったほどに。ただ、やはり、「弱いから何をしても許される」ことにはならない。
 
 繰り返すと、一つの暴力(例えばいじめ被害)に苦しんだ人間が、なぜ別の他人に全く同じ暴力(いじめ加害)を振るい、しかもその相手に当のレッテル(お前こそがいじめっ子なんだ)を貼り付けてしまうのか――のみならず、これらの折り重なる自己目隠しに、なぜ、本人が永久に気付けないのか。わかるような気はする。そういうものだ。犠牲の転移だ。弱い者がより弱い人を叩くんだ。そういうふうに一般化してしまえばそうとしか言いようがないのだが、もう一度立ち止まってよくよく見つめてみると、やはりよくはわからないなと思えてくる。どうしてこんなことになっていくんだろう。あんまりじゃないか。
 
 生きづらいというより、「生」自体から見捨てられたような正真正銘の弱者であり、しかもそれゆえに「弱者」の自己絶対化や弱者競争に陥ることを強く拒もうとさえする人々が、なぜ、自己矛盾的な暴力に自らくいつぶされてしまうのか。その蟻地獄のような人生から何年たっても一歩もぬけられないのか。矛盾の輪は伊藤潤二『うずまき』のように、あちこちに感染し転移し、人々を渦巻の地獄へと巻き込む。くだらなくない人間がいるなんて絶対にゆるさない、とでもいうように(『呪怨』『叫』)。
 
 やっぱり、よくわからない。濁りきった悪さにおいてかなしいものがある。それぞれにある。だが哀しさ、よわよわしさ、あわれっぽさを感じるとのべて通り過ぎるわけにゆかないものがある。それらに対処するには、迎撃・沈黙・慈しみ、どれがふさわしいのかも、決められない。けれども、この数年、私自身のだめさをふくめて、自分の足元を鶴嘴で掘り進めたあげく、行き当たった岩盤(足場)のありかを今、一つだけ再確認するなら、それは「かつて悲惨な被害にあった当事者が、それを理由に、別の人間に何をしてもいい、傷ついた人間が直接間接に他人を傷つけて構わない、とは言えない」、という単純な事実であるらしい。私は自分が何かの被害者であると言いたいのではない。現実の複雑さの中では、被害と加害の意味もまた、重層的に決まっていくからだ――だがその重層性の認識(自分は純粋被害者ではない、別の局面ではいやおうなく加害の構造に加担している、しかしそれを認めることが、自分の部分的な「被害」を否定することにはならない)をほんとうに自分の内臓に焼き付けるには、なまなかでない傷と痛みの経験をくぐる以外なさそうだ。
 
 きみは卑小でささいな事柄にこだわりすぎている、と言われるかもしれない。例えば弱者が仕方なくふるう暴力よりももっと巨大な悪や暴力がこの世にはある、そちらをどうにかすることのほうを優先すべきではないのか、云々。しかし、この手の言い方は、いつも肝心の何かを取り逃している。弱さを弱さとして認めようとしないから。むしろ「弱さをめぐる抗争」をなかったことにすることが、長い目でみれば事態を一層悪化させ、あらゆる抗争をなし崩しにしていくように私は思う。
 
 この短いエッセイを書くことは私をいたく消耗させた。ずいぶん時間も費やした。ただ、おぼろげに見えていたものをつかまえなおし、腑に落とせた感じはじゃっかん、ある。
 
 私はもう弱者暴力との闘争も辞さない、という意味だ――正確に言えば、自分の弱さを認められない(内藤氏で言えば、極端な被害者意識・自己卑下と、それゆえの誇大な自己顕示欲)。弱さが時に他人を傷つける武器になる事実を分かろうとしない。自分の弱さと弱者暴力を認められず、それらを否認するから、かえって不安になって、他人へとめどもつきない暴力の泥を塗りたくっていく(内藤氏に組しない他人を強引に「いじめっ子」「加害者」と決めつけ、告発していく)。――そういう弱者暴力との卑近な闘争。
 
 微小な違いだが、「弱者暴力との抗争」と「弱者との闘争」(アドルフ・ヒトラー)は違っている。決定的なのは、全ての追い詰められた弱者が必ず弱者暴力を振るうとは限らない、という単純だが圧倒的な事実だ。しかし、「弱者暴力との抗争」を「弱者との闘争」から分離しうる基盤は何だろう。戦いがたんなる戦いのための戦い、殺し合いの螺旋ではなく、弱者暴力を振るうその他者――弱者ゆえに最大の敵――をあるやり方で愛するからこその戦いであること。その愛自体が「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(『マタイの福音書』)というタイプの、わかりにくい愛、殺意をもふくむ愛であること。言葉の一粒ひとつぶが愛の雪片でしんしんとぬれてあること。馬鹿馬鹿しいことを述べているだけかもしれない。何を今さら、と嘲笑されるかもしれない。でも、私はこれらのことを、誤解なく伝えられるとも思っていない。「だいいち、誤解されない、ねじまげられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞいくらもありはしないのだ。ただ、それほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない」(中野重治「素撲ということ」)。そこから何が見えるのか、見せられていくのか――私自身を含めて、誰が加害者/被害者/弱者なのか、自分たちが今どんな「議論の場」でこの泥のような議論を続けているのか、土と泥を分けられるのか、それ自体が自明ではなく、討論的=論争的に決められていく以外ないのだ。
 
 私が内藤氏のよわよわしさを愛する、少なくとも愛しうるとは、どういうことか。このエッセイで書いたことを実践するためにも、肯定の言葉をいつか書き記せたら、と思う。
 
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いままでの「いきすべき批評」

2007.7.17 第1回「息するあいだ、希望はある」
2007.7.25 第2回「ちびしすぎる、なにも…かも!!――いましろたかし『デメキング』」
2007.8.27 第3回「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(前半)」

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先日オールニートニッポンからのアクセスがあって、見てみると以前のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/demian/20070128)に... [詳しくはこちら]

コメント (1)

sekaikyowa さんのコメント

なんだかよくわからないけど、涙でました。

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2007年08月27日 12:19に投稿されたエントリーのページです。

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