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名前はまだ無い 第3回「「ひきこもり」原因論・雑感(1)」

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名前はまだ無い 第3回「「ひきこもり」原因論・雑感(1)」
 
今回は、「ひきこもり」の原因というものを一体どう考えればよいか、
ということについて書いてみようと思います。
 
前回のラストで「ある人がひきこもるのは、様々な出来事や出会いの積み重ね、
そのタイミングとしか言えない」と書きましたが、
私はこういう感じでずっと、原因について語ることを避けてきました。
 
また、どうやら臨床現場でも、原因を追究することは避けられているようです。
たとえば斎藤環さんはその著書で、原因探しは不毛な犯人探しにつながると指摘し、
仮に原因が分かっても、ひきこもっている状態から抜け出すことの助けにならない、
ということを述べています(『ひきこもり文化論』紀伊国屋書店、2003年など)。
また厚生労働省による対応のガイドラインでも、この見解は採用されています。
 
が、しかし。
原因を知ることは、果たして本当に無意味なのでしょうか。
これについて考えるためには、“誰から見た/誰にとっての”原因なのか、
ということを整理する必要があると思います。
まず、私が原因論を展開することに対して距離をとってきた理由から考えてみます。
 
一つは、前回書いたように「ひきこもり」の原因として出されるようなもの
――親との葛藤、進路選択上の挫折、対人関係トラブル、社会への拒否感etc.――は、
誰しもが経験するような類のものであって、
どうしても、そこから「ひきこもり」に固有の何かを
導き出せるとは考えられないからです。
要は、認識利得というやつが、あんまりないように思うのですね。
 
もう一つ、私の原因論に対する抵抗感というのは、
研究者や援助者が一般的・普遍的な原因を、
外側から特定することへの抵抗感でもあります。
要するに“研究者や援助者から見た”原因というものには、
まったく重きを置いていないということです。
 
じゃあ、これまで原因を全く無視して研究してきたのかというと、
これがまたそうとも言えないわけで。
インタビューでも「振り返ってみて何でひきこもったと思いますか?」
という質問は毎回してるわけで。
つまりは“個々の当事者から見た”原因には、目を向けてきたというわけです。
 
→つづく。
 
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2007.7.27 第2回「身もフタもない」

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2007年08月03日 10:42に投稿されたエントリーのページです。

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