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第2回 「努力が報われる社会」にNO!
ニートはなぜ働かないのだろうか?
ニート自身が努力をしないからで、
要するに自業自得なんだろうか?
いや、そうではない、と主張する人もいる。
彼らはこう言ってニートを「弁護」する。
ニートが働かないのは社会のせいだ。
経済のあり方が変わったのだ。
バブル崩壊のせいで、仕事の数自体が減ってしまった。
最近になって景気は回復したけれども、
かつてのような安定した仕事は少ない。
だとしたら「あぶれる」人、つまりニートが出現しても当り前じゃないか。
これらの立場のうち、どちらが正しいだろうか?
「どっちもどっち」だと僕は思う。
一見すると、経済に原因を求める立場の方が
ニートに寄り添っているように見えるかもしれない。
でも、ニートが働かない理由をニート自身にではなく「外」に求めるこの考え方は、
ニートを非難する立場と、ある前提を共有している。
それは、「人間は働く意欲を持って当然」という信仰だ。
それが当り前なのだとしたら、
働かない人間の存在はとっても不自然なことに思えてくる。
何か「理由」があるはずだ。
というわけで、「犯人探し」が始まる。
古き良き「美しい国」の伝統を愛する方々にとって、
その「犯人」は戦後教育だったり、ゲームだったりする。
批判精神に溢れる社会派の皆さんは、
経済の変動が「犯人」だと言う。
その違いがあるだけだ。
どちらの立場も、
働かないことを「問題」扱いしていることに変わりない。
ニートが働かないことを経済のあり方に求める人々は、
本当に働きたくない気持ちを見えなくしてしまうこともある。
sjs7さんは言っている。
……僕のような怠け者の若者は、少なくとも世界に一人は、存在しているんですから。それがあたかも「なかった」かのように扱われる。若者は全て働き者であり、怠け者の若者なんかいないよ・・・そう良識ある学者が発言するごとに、僕のような怠け者の存在は、この世界から削り取られていっている、そんな風に僕は感じています。
http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070615/1181853652
おいコラ、ちょっと待て。
俺はガチで働きたいんだ。
なのに仕事がないから困ってるんだ、という人もいるかもしれない。
たしかに、今の社会では
働いていないと何かと困ることがある。
お金がもらえない。
給料が入ってこなくて、親や年金や生活保護にも頼れなかったら、
生活することができない。
たとえ援助が受けれても、
自分で稼いだお金があるのとないのとでは自由に差がある。
ま、そうかもしれない。
今の社会がず~っと続くんだとしたら。
そこで、革命です。
働かないと困ることがあるんなら、社会の方を変えちゃえばいいじゃないか。
働かなくても安心して生きていける世の中にすれば、
働く必要はないんだから、働かなくてもいいじゃないか。
革命とは、「がんばった者が報われる」社会を実現することなんかじゃない。
そんなのは、単に今の体制の不完全なところを補修するだけだ。
そうじゃなくて、がんばるとかがんばらないとか、
そんなんどうだっていいじゃろ!
っていうのが革命である。
今の社会で、在日朝鮮人は差別されている。
このことについて、差別問題を解決するために
在日朝鮮人を日本に同化しよう言う人がいたら、
それは最悪の差別主義者だ。
それと同じことだ。
ニートに必要なのは仕事でも意欲でも努力でも能力でもない。
そうではなくて、社会の方を変えることこそが必要だ。
っていうか、社会の方を変えちゃえば、意欲とか努力とか、
もうどうでもよくなるのだ。
ちろるさんという人は言っている。
私は「野宿者は怠け者だ」という人に二つの言い分で言い返したいです。一つは、いや、怠け者じゃないです、と。仕事がないし、一般の労働市場からはじかれてしまっているのだ、と。仕事がないし……。あともう一つは、じゃあ、逆に怠け者で何が悪いのって。野宿でそんなに悪いのって。……皆、野宿に至った経緯は、大きな問題で言えば、労働市場からはじき出されたというのがあると思うのだけれど、じゃあ今、労働市場に喜び勇んで戻りたいかというと、そう思わないのが「自然だ」と。……怠け者でなにが悪いのって。わたしはそっちを言いたくて。そんなに働くことがいいのかって。
「私は日雇い派遣しかできません (>△<) VIVA じぶん!!★」『フリーターズフリー』 Vol. 01, p. 178.
僕は、後半に特に共感する。
で、ここまで書いてきたことと矛盾するようだけど、
ちろるさんの言葉の後半に納得することによってこそ、
前半もわかってくるのだと思う。
このことについては、また別の機会に書いてみたい。
(宣伝)
以前、コトバノアトリエ主催のイベントで今回のエントリーと関連するテーマでお話しさせていただきました。↓はその原稿に手をいれたものです。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20060609#p1
感想はこちらへ
いままでの「共産主義、入門中」
2007.7.13 第1回「宝くじと教育の不平等」

コメント (2)
いろいろと感じるところのある記事でしたが、長くなると思うので、寓話をひとつ。
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むかしむかし、仙人になりたいと願った男がおりました。この男、現代の大量生産・大量消費社会のえげつなさにほとほと辟易し、山の中でひっそりと、誰にも迷惑をかけずに暮らしたいと願ったのです。幸い、山奥の廃村になりかかったむらに古びた家をタダ同然の家賃で借りることができ、家主の田んぼを耕し始めました。泥にまみれて最初の収穫を手にしたときには、それはそれは嬉しかったものです。自分の田畑からの収穫だけで毎日の食卓が賄えるようになったときには、誇らしく、生きていてよかったと実感したものでした。
自分の食べるものだけを手に入れるなら、百姓仕事ほど楽なものはありません。作物と語り合いながらほんの少しの手を加えるだけで、食べきれないほどの収穫が得られます。男は毎日田畑に出るのが楽しみでしかたありませんでした。そんな男を近所のひとが見て、「あんた、そんなにたくさん野菜を作ってどうするね。ちょっと売りに行ったらどうだ」と、販売先を紹介してくれました。実際、男は現金収入の全くない暮らしに少しの不安を覚えないことはなかったので、喜んで野菜を売りに行きました。規格に合わない男の野菜は最初はいくらにもなりませんでしたが、やがて無農薬栽培が評価され、あるショッピングセンターの有機野菜コーナーで扱ってくれるようになりました。
すると、売り場の担当者は、「もっとないですか?」と聞きました。男は、野菜栽培が面白くなってきたところなので、喜んで畑を増やしました。端境期が来ると、「野菜を切らさないようにできませんか?」といわれて、ハウスを建てました。近所のひとが口をきいてくれて、農協が低利の融資をしてくれました。機械屋がやってきて、省力化の方法をいろいろ教えてくれました。有機野菜コーナーの担当者の言葉もあって、男は少しの機械を入れて出荷の量と期間を安定させようとしました。
そんな男の毎日は、だんだんと忙しくなりました。農繁期には朝の暗いうちに起きて涼しい時間帯に稼ぎ、昼飯を食ったら2時間ほど昼寝して、その後は日暮れまでまた稼ぐ。そんな体力を消耗する毎日が続きます。けれど、近所の人々は、「なに、百姓なんてそんなものだ。昔はわらじも脱がずに寝てしまうようなことがよくあったものだ」と話します。ときには「あんた、よく働くねえ」と感心するおばあさんもいます。そう褒められると、男も悪い気はせず、さらに一生懸命頑張ります。男は目の下に隈をつくり、サプリメントまで飲むようになりました。それでも体力の続く限りと頑張りました。
こうやって、男は野菜農家になりました。農協がやってきて、経理の指導をしてくれます。そこで帳簿をつけてみると、朝から晩まで働いて、収入は都会にいたときの10分の1に過ぎません。いったいこれは何なんだろうと男は思いました。
そして、消費者たちが男のもとにやってきました。男は、自分が都会の暮らしに見切りをつけたこと、自給自足で自分を取り戻したことを語りました。消費者たちはとても感心して、男の野菜と卵を買っていってくれました。
消費者たちが帰った後、男は絶望的になりました。自分は大量消費社会に愛想を尽かしてここに逃げてきたのではなかったのか。けれど、あの連中は、そのなかにどっぷり漬かって、普通じゃ買えないような割高な野菜を買うような連中だ。そんなやつらに10分の1の労賃で使われるような暮らしを自分は望んだわけではない。
けれど、もう男に逃げ出すところはありませんでした。いちど都会から逃げ出した男には、もうそれ以上、どこにも逃げ出す場所はありません。「あの頃はよかった」と男は懐かしむばかりです。「あの頃」って、いったいいつのことなんでしょう?
投稿者: Mazmot | 2007年07月23日 11:24
Mazmotさん、コメントありがとうございます。毎度ながらレスが遅れてすみません。
すごく興味深い「寓話」で、色々と考えてしまいました。今度、「はてな」の方のブログに引用させていただいていいですか?
一つの焦点は、世の中は全てつながってるので、「オルタナティブ」や「解放区」や「アジール」もまた資本主義との関係を通してしか存在しえないってことだと思います。
ただ、これはだから何をやってもムダだってことではなくて、だからこそローカルな実践が全体的な変革をもたらしうるということにもなると思いますが……。
投稿者: ツネノ | 2007年08月07日 00:16