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いきすべき批評 第1回「息するあいだ、希望はある」

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第1回 息するあいだ、希望はある
 
極貧と病で二七歳で死んだ石川啄木は、
二四歳の時、
自分の生活をこうふりかえった(「食うべき詩」明治四二年)。
 
十七・八歳の頃から二〇歳くらいまで、
詩を書いていた。
「空想と幼稚な音楽と、
それから微弱な宗教的要素(乃至はそれに類した言葉)」
を込めたような詩だった。
やがて
「恋の醒際(さめぎわ)のような空虚の感」
がやってきた。
詩作自体に疑いを、「悲しみ」を抱いた。
二〇歳の時、
父の失業や妻の出産など、
生活の急激な変化があり、
あらゆる生活の重みが
いっせいにのしかかってきた。
詩を書くことにも読むことにも、
なんの興味も持てなくなった。
いつしか、心身の「ドン底」に沈んでいた。
 
《自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、
もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、
あの森川町の下宿屋の一室で、
友人の剃刀を持ってきて夜半ひそかに
幾度となく胸にあててみた……ような日が
二月も三月も続いた。》
 
啄木はこのとき同時に
「ふと、今まで笑っていたような事柄が、
すべて、きゅうに、
笑うことができなくなったような心持になった」という。
こういう心持を、
私は、簡単に想像してみることができない。
文壇スノッブばかりか暗い顔のニヒリストたちにも、
生活上の責任を回避した
特権者の余裕しか感じない。
他方で「何か面白い事は無いか!」
=「世界は大いに盛り上げるもの」は
「実にかの多くの文学者の生命を滅すところの最大の敵」
以外ではない(「硝子窓」)。
でも、その「ドン底」は同時に、
「新らしい詩の真の精神を、
初めて私に味わせた」のだという。
では啄木がそこから前方に見通していたのは、
どんな「詩」だったのか。
 
《「食(くら)うべき詩」とは
電車の車内広告でよく見た
「食うべきビール」という言葉から思いついて、
かりに名づけたまでである。
謂う心は、両足を地面に喰っつけていて
歌う詩ということである。
実人生と何らの間隔なき心持をもって
歌う詩ということである。
珍味ないしはご馳走ではなく、
我々の日常の食事の香の物のごとく、
しかく我々に「必要」な詩ということである。――
こういうことは
詩を既定のある地位から
引下すことであるかもしれないが、
私からいえば
我々の生活にあってもなくても
何の増減のなかった詩を、
必要な物の一つにする
ゆえんである。
詩の存在の理由を肯定する
ただ一つの途(みち)である。》
 
生活の「必要」に立って
「詩」を根本的に刷新=革命しようとする啄木の言葉は、
ほんとうに強い。
 
正確には、どろどろの弱さや「どん底」を舐めた人間の、
ぎりぎりの強さがそこには漲っている。
 
そのとき、詩は単なる詩でなくなり、
趣味は単なる趣味でなくなる。
「趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味」になっていく。
 
しかし、私が今ぼんやり思うのは、
啄木のいう「食うべき詩」の、さらにもう少し
手前にある二、三の事柄についてだった。
 
――こころがよわいんじゃない。
私たちのような種族には、地上で生きていくには、
たんに、空気が足りないだけなんだ。
 
誰か有名な人が、そんなことを言っていたと思う。
 
……レッテルを貼られることにもそれに抵抗することにも、
もう疲れた。
加害者の尊大な居直りには吐き気がするが、
過剰な被害者意識にも同程度にうんざりさせられてきた。
ただ、違和感と息苦しさだけが日々募っていく。
この息苦しさを、誰もがほどよく抱える「生きづらさ」に
切り詰めたくはない。
自分を肯定して楽になろう、とは思わない。
もっと自己否定して苦しめ、とも思わない。
苦しさがあるなら、
その苦しさをそのままに生き抜くだけだ。
苦しさを社会の側に投げ返し、
何かを変えていくだけだ。
その時、この私の苦痛は同じ苦痛でありながら、
少しも癒されも軽くなりもしないままでありながら、
何か別のところへと突き抜けていくはずだ……。
 
ずっとそういうふうに信じてきた。
 
なのに、
どうして、
こんなにぐったりと疲れているんだろう。
 
生き始める前から生きるのに疲れているように、
体が動かないんだろう。
「ドアの外で思ったんだ/
あと10年たったら/
何でもできそうな気がするって/
でもやっぱりそんなの嘘さ/
やっぱり何もできないよ/
僕はいつまでも何もできないだろう」
(フィッシュマンズ「In The Flight」)。
 
『ジョジョの奇妙な冒険』第一部の
ジョナサン・ジョースターは、
黒騎士ブラフォードに水中へと追いつめられたとき、
敵から逃げるのでも正面から戦うのでもなく、
あえて、水中深くにもぐっていった。
 
 《普通の人間はおいつめられ息が苦しければ水面に出ようとばかり考える
 だがジョジョは違った!
 逆に!
 ジョジョはなんとさらに!
 湖底へもぐった!》
 
そしてジョナサンは、
地盤沈下で水没した岩のあいだに空気を発見し、
「ひと呼吸」する。
その時彼が思い出していたのは
「ダニー(犬)がおもちゃの鉄砲をくわえてはなさない?/
ジョジョ、それは無理矢理引き離そうとするからだよ/
逆に考えるんだ/
「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ」
という父の言葉である。
 
逃げるのでも正面突破するのでもない。
あえて水底に潜って
ほんのわずかな空気を発見することが、
ジョナサンを水没の苦痛から本当の意味で逃れさせる。
自分の周りの大量の水は、
その時むしろ、呼吸と波紋を敵へ向けて
「たやすく」伝導させるための「味方」になるのだ。
 
空気が足りない。
いきすべき批評が探しもとめているもの、
それはきっと、こんな、
ほんのわずかな空気のありかなのだろう。
でも「ひと呼吸」のためには、
「逆に考える」ことが必要かもしれないのだ。
 
(ほんとうの弱さのありかを言葉でとらえない限り、
ほんとうに弱い存在の生は
――過去に消えていった存在も、未来に生まれて来る存在も――
永久に救われない。
いつからか、私の無意識の底には、
そんな信念がひっそりと息づいていたように思う。)
 
「魂」は英語でsoulやspiritだが、
spiritは語源的に、
「息」を意味するラテン語spiritus(スピーリトゥス)から来ているらしい。
その動詞形がspiro(スピーロー)。
ラテン語には、Dum spiro, spero.[息をする間、私は希望を持つ]という
有名な格言がある。
息することはいのちの根源にある(長生き=長息)。
生きてさえいれば希望がある、
という抽象的なことを言いたいのではない。
ひとつのいきをすることと
もう一度いきをすることのあいだに、
希望(spero)はある――、というのだ。
そして呼吸は、
随意運動であると同時に
不随意運動でもある唯一の行為なのだという。
希望や喜びは、
息することのように不随意な何かでもある。
息をするという具体的な動作の中には、
不思議な喜びや肯定が込められている。
肉体ばかりじゃない。
それは文字通り、「魂」の呼吸でもあるのだから。
 
ジョジョの第一部・第二部のテーマは「生命賛歌」にあった。
 
生命のおおもとには、呼吸法(波紋法)がある。
 
しかしジョジョの世界では、
実は、
誰が強いか、
頭がよいか、
そういうことを競っているのではない。
 
そんなことよりも、
自分が息するのにふさわしい呼吸のしかた、リズム、
力の抜き方を学ぶことが、いちばん大切なのだ。
だから人の人生には、
ほんとは、強い/弱い、勝った/負けた、等の区別はない。
 
第三部以降のジョジョは、むしろ、
人間の精神(スタンド)の賛歌へとシフトしていく
(そこでジョジョがどんな豊穣な物語を紡いでいくかは、別の場所で書く)。
 
しかし、私は、今あらためて、
ジョジョの第一部・二部の「生命」「肉体」の水準に立ち戻って、
生きることを学びなおしてみたい。
そう思っている。
 
この連載では、主にマンガ・映画・小説の批評を通して、
自分なりの「湖底」へと深く潜ってみるつもりだ――
湖底に沈んでいるのが
「見たくないもの」
「ないことにしておきたいもの」
であっても。
 
「我々の魂が空気であり、
それが我々を統括するように包んでいるように、
宇宙の全体を息と空気が包んでいる。」
(アナクシメネス)
 
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2007年07月17日 01:53に投稿されたエントリーのページです。

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